野村萬斎さんの狂言で笑えたのに、能で置いていかれた話

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いつもの毎日に、ちょっぴり好奇心を

狂言で笑えたのに、
能で置いていかれた話。

扉が固かったのではなく、私が鍵を持っていなかっただけ。国立能楽堂で置いていかれて、それから少し調べてみました。

友人に誘われて、国立能楽堂へ行ってきました。

能と狂言を観るのは、初めてです。


まずは狂言。これが、笑えたのです

観たのは、人間国宝・野村万作さんと、ご子息の萬斎さんの親子共演。

九十歳をこえてなお舞台に立たれるお姿。
そして、親から子へ受け継がれていくもの。
それを同じ舞台の上で観られたのは、それだけで貴重なことでした。

言葉は、難しいのです。

けれど萬斎さんの表現は最高で、滑舌もよく、表情も多彩。
おかげで笑いどころもわかって、なんとなく台詞も耳に入ってくる。

古典なのに、なんとなく「わかったような気」になれるのです。

ああ、こういう世界か。
少し、肩の力が抜けました。


二十分の休憩をはさんで、能

ここからが、正直、難しかった。

理解が追いつかないまま、時間が過ぎていきます。

能面をつけた演者は、表情が読めません。
喜びなのか、悲しみなのか、こちらには届いてこない。

言葉だけで理解しなければならないのに、
異国の言葉のようで、まったくわからないのです。


自分の経験が、まるで役に立たない

バレエやクラシックなら、踊りや旋律から感情が流れ込んできます。
自分にも、観てきた蓄積があります。

けれど能は、そういう「自分の経験」とはまったく別のところで成り立っている
そんな気がしました。

そもそも能が、どうやって生まれ、何を表そうとしているのか。

それを知らないままでは、入口にも立てないのだと痛感しました。


驚いたのは、客席でした

見渡すと、満席。

きっと、私のような初心者はそうそういないのだろう、という印象でした。

ここにいる方々は、バレエやクラシックのように
「自分に経験があるから楽しめる」という枠を超えて、この世界を味わっている。

それが、たまらなく興味深く思えました。


扉が固かったわけではなかった

理解できるように知れば、私も楽しめるのかもしれない。

この日いちばんの発見 入口に立てなかったのは、扉が固いからではなく、
私がまだ、鍵を持っていないだけなのかもしれない。

わからないことで、少し不本意な気持ちになってしまいましたが、
ひとつだけ、はっきりしたことがあります。

日本の古典を、成り立ちから、きちんと学んでみたくなりました。


それで、少し調べてみました

鍵を、探しにいったのです。

そうしたら、あの日わからなかったことの理由が、ぽろぽろと出てきました。
順に書きます。

1|能と狂言は、兄弟だった

どちらも猿楽(さるがく)から分かれたものだそうです。

もっと遡ると、大陸から伝わった散楽(さんがく)にたどりつきます。
曲芸、物真似、軽業、手品。
今でいえばサーカスやコントに近い、雑多な見世物だったといいます。

その物真似と滑稽の血を引いたのが、狂言
歌と舞を洗練させ、幽玄の劇に育てあげたのが、能。

つまり、もとの姿に近いのは狂言のほうなのです。
能のほうが、あとから枝分かれして、遠くへ行った。

あの日、狂言だけがすっと入ってきたのは、偶然ではなかったのですね。

2|能の主人公には名前があり、狂言の主人公には名前がない

能に出てくるのは、名のある人たちです。
平家の武将。在原業平。小野小町。
誰もが知っている名前を主人公にして、その物語を演じます。

いっぽう狂言の主人公は、こう名乗って出てくるのだそうです。

狂言の名乗り 「このあたりの者でござる」

名前が、ないのです。

どこにでもいる誰か。
全国どこで演じても、海外で演じても、「このあたりの者」。

これを知って、膝を打ちました。

私が能で置いていかれたのは、当然だったのです。
だって、その「誰もが知っている名前」を、私が知らなかったのですから。

3|言葉が、そもそも違った

能の詞章は文語です。
『平家物語』や『源氏物語』を下敷きにしていますから、原文に近い言葉で語られます。

狂言は口語
「〜でござる」といった言い回しを別にすれば、ほとんど話し言葉なのだそうです。

「なんとなく台詞が耳に入ってくる」と感じたのは、気のせいではありませんでした。
本当に、話し言葉だったのです。

4|能面は、表情を消すための道具だった

これがいちばん驚きました。

能面をつけると、視界がほとんど奪われます。
自分の膝も見えないほどだといいます。

ですから演者は、目に頼らず、体で平衡を保つ
あの独特の構えと、すり足。
美しさのためだけではなく、面をつけて倒れないための技術でもあったわけです。

そして表情。

能面には表情がないのではなく、消してあるのだそうです。
そのうえで、面をわずかに上げ下げして、光の当たり方を変える。
上げれば「照らす」、伏せれば「曇らす」。
それだけで、喜びにも悲しみにも見えるのだといいます。

私は「表情が読めない」と嘆いていましたが、
読めなくて当たり前でした。消してあるのですから。

読むべきは顔ではなく、角度だったのです。

5|狂言は「上品な笑い」を旨とする

狂言には、下ネタで笑わせないという決まりごとがあるのだと知りました。

笑いの種は、いつも人間そのものです。

  • 附子(ぶす)……食べるなと言われると、食べたくなってしまう
  • 棒縛(ぼうしばり)……縛られてもなお、酒を飲みたい
  • 佐渡狐(さどぎつね)……見栄を張って嘘をつき、嘘に嘘を重ねて破綻する

どれも、身に覚えのあることばかりです。

会社にもいます。ちょっとした嘘をごまかすために、どんどん嘘が大きくなっていく人。
というより、私がそうです。

そういう人間を見下ろして笑うのではなく、
「人間って、そうだよね」と笑って、肯定する。
それが上品な笑い、ということのようです。


私が持っていなかった鍵

調べ終えて、こういうことかと思いました。

狂言は、名前のない誰かの日常を、そのまま見せる。
だから、予備知識がなくても笑える。

能は、誰もが知っているはずの物語を、知っている前提で見せる。
だから、知らない人は入口にも立てない。

扉が固かったのではありませんでした。

能は、はじめから「鍵を持っている人のための扉」だったのです。

そして、ここからが大事なところです。

鍵は、売っています。

演目のあらすじを、ひとつ読んでおく。
主人公が誰なのかを、知っておく。
たったそれだけで、扉は開くのだそうです。

あの日の満席のお客さんは、特別な人たちではなかったのかもしれません。
ただ、先に鍵を買っていただけなのでしょう。


次は、鍵を持って座ります

次は少し予習をして、もう一度あの席に座ってみようと思います。

狂言なら、まずは棒縛あたりから。
動きが多いので、言葉が多少わからなくても笑えるそうです。

能は、あらすじを読んでから。
主人公の名前だけでも頭に入れて。

そうしたら今度は、置いていかれずに済むでしょうか。

国立能楽堂(東京・千駄ヶ谷)

能と狂言の専門劇場です。多くの公演で、座席に字幕表示の装置が付いています。初めての方向けの解説付き公演もありますので、私のように鍵を持っていないうちは、そちらから入るのも手かもしれません。

能と狂言は、もともと交互に上演されるものだったそうです。あの日、狂言のあとに能が来たのも、昔ながらの順番だったわけですね。

(鍵を持って座ってきたら、また書きますね)