読み終えたあとも、胸がざわつく――雫井脩介『クロコダイル・ティアーズ』【ネタバレ注意】

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※この記事には、物語の発端にかかわる内容が含まれます。事件のあらましや、そこから家族に広がっていく疑いなど、物語の入り口に触れています(犯人の詳細や、結末そのものには触れていません)。未読の方は、その点をご承知のうえでお読みください。

法廷ものにすっかり夢中だった私ですが、今回はぞくりとする心理サスペンスを一冊。
雫井脩介さんの『クロコダイル・ティアーズ』です。じつはこれ、読み終えてからしばらく経つのに、まだ心のどこかがざわざわしているのです。いったいどういうことか、順を追ってお話ししますね。

どんなお話?(ここから物語の発端に触れます)

物語の舞台は、老舗の陶磁器店を営む、ある熟年のご夫婦の家です。近くには息子夫婦と孫も住み、幸せに暮らしていました。ところが――跡取りである息子が、何者かに殺害されてしまうのです。

やがて犯人は捕まり、裁判にかけられます。ところが判決のあと、その男が叫んだひと言が、残された家族を大きく揺るがすことになるのです。

その言葉をきっかけに、残された家族のあいだに、疑いが静かに広がっていきます。信じたい者と、どうしても信じきれない者。うまく言葉にできない小さな違和感が、日々の暮らしのなかに、少しずつ積み重なっていくのです。派手な事件が次々に起こるわけではありません。その“じわじわ”とにじり寄ってくる不穏さこそが、なんとも怖いのです。

作中で語られる、タイトルの意味

「クロコダイル・ティアーズ(crocodile tears)」という言葉の意味は、作中できちんと語られます。英語の慣用句で、「うそ泣き」「見せかけの涙」のこと。ワニは獲物を食べながら涙を流す、という古い言い伝えに由来し、悲しくもないのに見せる涙の、その白々しさ・偽りを指す言葉だと説明されるのです。

この意味を知ると、題名がぐっと重く迫ってきます。お嫁さんの涙――いえ、涙のなさ――は、はたして本物なのか。物語の芯にある疑いを、そのまま言い当てた題名だったのだと、深く納得させられました。

ひとりの人物を、いくつもの目が見つめる

この小説の巧みなところは、語り手がひとりではないことです。信じたい者と、疑う者――残された家族それぞれの視点を行き来しながら、物語は進んでいきます。だから読者は、ひとりの人物を、いくつもの違う目を通して見ることになる。見る人によって、その姿は、健気にも、不気味にも映る。その多面性こそが、「この人は、本当は何者なの?」という不安を、どんどん深くしていくのです。

そして気づけば、読んでいる私たちまでもが、家族と一緒になって、落ち着かない気持ちに引きずり込まれている。ひとつ、またひとつと、小さな疑いが重なっていく。「あの言動には、何か裏があるのだろうか」――そう思いながら、ページをめくる手が止まらなくなるのです。まんまと、作者の手のひらの上ですね。

すっきり終わらせてくれない、この読後感

そして、結末。詳しくは申しませんが、気持ちよくすっきり――とはいきません。それが、この物語の恐ろしくも巧みなところ。読み終えた今も、私の胸のざわめきは、いっこうに消えてくれないのです。

とりわけ、物語の終盤に訪れる、ある“死”。それが本当に、自ら選んだ末のことだったのか――そこもまた、はっきりとは語られないまま、確かめようのない疑問として、そっと残されるのです。

読者の胸に“もやもや”を、そっと残していく。そしておもしろいのは、その受け止め方を、まるごと読み手に委ねてくることです。だからこそ、読み終えたあとの気持ちは、きっと人それぞれ。素直に物語を受け止めて、静かに本を閉じられる方もいれば、私のように、いつまでも心がざわついてしまう者もいる。どちらの読後感も、この作品の懐の深さなのだと思います。

白状すると、私は最後まで、どうにも疑い深いままでした。「こんなふうに勘ぐってばかりで、私の心は、少しすさんでしまっているのかしら」。そんな苦笑いまで、浮かんでくるのです。けれど、そう思わせること自体が、じつはこの物語の仕掛けなのかもしれません。登場人物を疑っているつもりが、いつのまにか、“こんなに人を疑ってしまう自分”のほうを、まざまざと見せつけられる。この物語は、読み手自身の心の在りようまで、そっと映し出してくるのです。

人生の経験を重ねるほど、人を見る目は、良くも悪くも鋭くなるもの。この本は、その“目”を、そっと試してくるようでした。さて、あなたなら、どんなふうに受け止めるでしょうか。

おわりに

こわいのに、癖になる。読み終えたあとも、しばらく心をざわつかせてくれる一冊でした。人の心の奥の、いちばん暗いところをのぞいてみたい方に、そっとおすすめします。私はAudibleで聴きましたが、家族それぞれの声が代わる代わる耳もとで語られるようで、疑いの温度が、いっそう生々しく迫ってきましたよ。

あなたは、この物語を、どんなふうに受け止められたでしょうか。もし違った読み方や、心に残った場面があれば、よろしければコメントで聞かせてくださいね。